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日本っぽいってなんだ

日本のポピュラーは日本人の

為のポピュラーじゃないと

ポピュラーとは言えないと思う。

 

と言うのは前の話でじゃあ

日本人らしさってなんだと

なると難しくなる。

 

古い言い方ならこぶしがきいてるとか

そういう言い方になると思う。

こぶしがきいてるのは演歌であって

ポピュラーじゃないと思うと思うけど、

日本のポピュラーは現代の日本人には

違和感が感じないようなこぶしが

きいてると思う。

 

萌え声なんかは日本のポピュラーの

影響を受けてるように思う。

かなり違和感があるからかなり

誇張した話し方だけど、緩くすると

昔のポピュラーな感じになると思う。

 

ただ昔のポピュラーを聞くと少し

違和感があると思う。

なんでみんなこんな歌い方なんだろう

みたいな。つまりその時代にはこぶしが

きいてるようには聞こえなかった曲が

今聞くとこぶしがきいてるように

聞こえるんじゃないかと思う。

 

今の曲ももっと後で聞くとこぶしが

きいてるように感じるんじゃない

だろうか。

 

日本のポピュラーは基本的に

こぶしがきいてるのか呂律がきいてる

のか節回しが細かいのか何というのか

効きがある。単純に言えばピッチが動く

という事だと思うが、そういう論理的な

ものではないと思う。言語的に言えば

なまってるという言い方が近いと思う。

萌え声がなまりの一種かどうかは

よく分からないが。

 

ただそういう特長的調性のようなものが

なくなりつつあってそれが日本的音楽の

低迷と大きく関係してると思う。

 

論理的にとらえると論理的にとらえやすい

ピッチが優先されると思う。

ピッチが大きく揺れる事は

論理的にとらえる事には向かないから

廃れていってるんじゃないだろうか。

 

こういうこぶしはファッションのような

ものなんじゃないかと思う。

これがオシャレと思っても数年後には

ダサと言われるようになる。

多分今オシャレとされているものも

数年後にはダサと言われるようになる

のだろう。

 

こぶしにはそういうイヤリングや

ネックレス的なものに近いと思う。

ブルースのように調性の一部の変化

のようなものではなく、全体的な変化

だと思う。

 

つまり全体像、つまり

萌え声とはこのようなものと理解して

いなければ理解しがたい調性なのでは

ないだろうか。

 

イヤリングでも今の時代につけると

ダサいと思われるものとオシャレと

思われるものがあるように、

こぶしや呂律にも今使うとダサいと

思われるものとオシャレと思われる

ものがあると思う。

 

なかなかちょーかっこいいじゃんと

言われるものはなかなか出てこない

ようだけど、あると思う。

 

何故かというと正しいピッチで

論理的に歌っている人を見ると

この人の顔とは似合ってないと

感じるからだ。

 

つまり日本人の顔にはピッチが

揺れてる方が似合ってるように

見える。

 

音楽は基本的に聞くものだが

歌ったり踊ったり弾いたり

している人を見るのも

音楽には避けられない事で、

見たときになんか違う感じがする。

 

音楽的にどうのこうのとかではなく、

単に合ってない感じがする。

という事は多分合ってる感じが

あると思う。

 

グルーヴ感とかも正直よく分からない

音楽的都市伝説のような感じだが、

これもそれに似たような個人的な

都市伝説として論理的なピッチは

日本人の風貌には合ってない

気がする。

 

昔はなんだかかわいい感じの呂律感

とか色気風男子的な呂律感で

歌っててそれがその時代には

合ってたと思うし、日本人の

風貌にも合ってたと思う。

 

つまりこぶしには言語的な呂律感に

通じる統一性みたいなものがあると

思う。ブルースのように調律音楽の

なかのなまった調律の中の一つ

というような部分的な

解読困難さではなく萌え声という

暗号を解読するための公開鍵がないと

解読不可能な暗号化されたような

状態、つまり全体像で理解していくもの

なのではないかと思う。何々風という

のは一部ではなりたたないと思う。

全体が統一された変化の中で何々風が

成り立っているのではないだろうか。

 

これは同じ国や地域などで生活する事で

身に付く語感のようなもので、

そういった統一性を共有するという

のが日本らしい音楽の一部なんじゃ

ないかと思う。そういう統一性は

外国の人とは共有出来ないのだから

結果的に日本固有になるしかない

と思う。

 

つまり単にピッチが揺れているというか

全然違うにしても、何々風という

ファッション的なイメージが統一性から

感じられる。それは固有性の共有だと

思う。

 

猫の泣き声がニャーなのは

日本固有らしがそれは日本全体で

共有している。アメリカではニワトリは

クックドゥードゥルドゥーと

鳴くらしいが日本でニワトリが

クックドゥードゥルドゥーと鳴くことは

ありえない。

 

昔は音楽とファッションはよく一緒に

扱われた。外国ではあまりないと思う。

外国のミュージシャンの服装は

よほど気合いの入った人でないと

着れない。日本人のミュージシャンは

基本的に普段着に近い。

 

こういう統一性を共有するという事が

日本の音楽には大切でこぶしが呂律と

合わさってそういう役割を果たしている

んじゃないかと思う。

 

ただ論理的なピッチが身に付くと

なかなかそういう自由なピッチは

使えなくなってしまうと思う。

 

メロディーを聞いてこんな雰囲気で

歌ってと言うとカラオケでもみんな

出来るのに論理的なピッチ感を

重視すると出来なくなってしまう

という印象がある。

 

あ~というとピッチはうねるが

ミ~というと上手く行くか

音痴のようになるといった具合だ。

 

このあ~という感じがを重視するのが

日本の音楽らしさのように思う。

この~記号は日本人には欠かせない

記号だがアルファベット系の人達は

使わない。まあネイティブな人達には

何か表現方法があるのかもしれないが。

単にhかな。